元洋服店が観た『少年H』 その3
盛夫は、40歳位キャリア約25年、仕立屋としても
脂ののった頃に、戦争で洋服作りを中断しなければ
なりませんでした。
終戦後、しばらくは茫然自失だった盛夫が、
空襲で壊れたミシンを直して、再起の手始めに、
妻敏子の洋服を作る所で、映画は終わります。
元洋服店としては、その後の戦後復興から
経済成長期の盛夫が、どのように過ごしたかも、
とても気になるところです。

一方鶴谷洋服店は、福太郎が60歳前後、
光明が20歳前後。戦時中光明は、縫製業という職業と、
場所柄もあってか、軍関係の縫製要員として、
借り出されました。国民服を作ることもあったようです。
1945(昭和20)年の空襲で三崎町を焼け出されて、
現在の場所に移りました。
大八車にミシンを積んで逃げた、と聞きます。

共通点を探せばたくさんありますが、それは何も
鶴谷洋服店に限ったことではありません。
一時は日本中にたくさんあったそういう洋服店が、
今も一つ一つ消えていきつつある事に、
諸行無常を感じずにおれません。
またそれだけに、現在も営業を続けていらっしゃる
洋服店の方々には、心より敬服いたします。
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エンドロールの末席に小さく鶴谷洋服店。
墓前に報告します。

9月23日は、伯父・光明の命日です。

おわり


元洋服店が観た『少年H』 その2
妹尾洋服店は当然日本家屋。
家の佇まいと看板が、どことなく鶴谷洋服店に似ていました。
同じ時代の同じ業種なら、当然かもしれません。

場所は神戸と東京、と違いますが
それぞれ大空襲をうけました。
鶴谷洋服店の建物は焼けずに残り、今年築85年となります。
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妹尾盛夫(水谷豊)の洋服作りは、
楽しみにしていたシーンです。

畳の上にバイタ(バン板)を置き、
それが作業台となります。
クラフト紙で作った型紙を布にのせ、
チャコで印をつけ、ラシャ鋏で裁断。
そこから数十の工程を経て、服を仕立てる。
職人の仕事は、数十年を経ても変わらない事を
再認識しました。
さすがに、畳の上での作業は、現在
どれだけの方がされているかわかりませんが・・・。

鶴谷洋服店では
映画の舞台である70年前と同じ様に、
最後まで和室での洋服作りでした。

妹尾盛夫(水谷豊)が、
慣れた手付きで、ラシャ鋏でサクサクと布を裁ち
ミシンを踏む場面があります。
ほんの少し手ほどきを受けただけ、だそうですが
ベテランの職人に見えました。

久しぶりに伯父に再会したような気がしました。

つづく


元洋服店が観た『少年H』 その1
映画『少年H』。
原作は、妹尾河童の自伝的小説です。
水谷豊・伊藤蘭の夫婦共演、また極僅かではありますが、
鶴谷洋服店も小道具で協力させて頂いた事もあり、
とても待ち遠しい公開でした。
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洋服店が舞台だけに、鑑賞中はもちろん、鑑賞後も、
その頃の鶴谷洋服店を想像したり、比較したりしています。

水谷豊演じる妹尾盛夫は、1902(明治35)年生まれ。
鶴谷家と比較すると、1882(明治15)年生まれの福太郎と、
1922(大正11)年生まれの光明との、ちょうど間の世代です。
この光明も、小柄で眼鏡をかけておりました。

盛夫は、まだ着物下駄履きの人が多かった1918(大正7)年、
15歳の時、広島から出て神戸の「島崎虎吉高等洋服店」に、
見習いの丁稚小僧として入りました。
修行先へのお礼奉公、他店への勤めを経て、独立。
神戸の西端、須磨に店を構え、その後弟子をとるまでに
なりました(原作より)。

ちなみに鶴谷福太郎は、1900(明治33)年頃、神戸方面での
修行を経験しています。

つづく


1942(昭和17)年
***********************************
企業許可令第七條二依ル事業報告書
一、現二行フ事業
  洋服裁縫
二、事業ヲ行フ場所ノ位置又ハ事業ヲ行フ区域
  東京府東京市神田区旭町拾番地
三、取扱物資ノ種類
  男子注文服、セビロ、オーバ、モーニグ(モーニング)、
  フロークコト(フロックコート)、
  国民服(洋服裁縫ノミ)
四、当該事業ヲ開始シタル時期
  明治二十八年二月

右企業許可令施行規則第十一條ノ規定ニ依リ及報告候也
東京府経済部収受 昭和十七年二月十一日

住所 東京府東京市神田区旭町十番地
報告者氏名 鶴谷福太郎 印

東京府知事 松村光麿殿  東京洋服商工同業組合

【別紙】
第2366号
企業許可令第七條二依ル報告書受理ス
昭和十七年五月二十五日
東京府知事 松村光麿
***********************************

鶴谷洋服店に残されていた戦時中の書類の一つです。
神田区旭町は、現在の内神田あたりです。
鶴谷福太郎60歳、鶴谷光明20歳の年でした。

この年は又、終戦前では最後の神田祭が行われた年でもあります。
その後、神田祭再開まで、10年を要することとなります。

薗部袴店 その2
鶴谷洋服店の建物は、築年数85年。
1928(昭和3)年に建てられました。
店舗部分は約5坪、と狭いのですが、
仕事場兼居住スペースは案外広く、
多い時は職人三家族が暮らしていました。

三階には、隠れ家の様な屋根裏部屋があり、
屋上には、物干し台があります。
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ここからは、長屋関係にある神保町ラドリオ(喫茶店)
の屋根や、三省堂神保町本店を眺める事が出来ます。

過日、かつてこの場所で『薗部袴店』を営んでいらした
薗部さんのご家族が、『新世界菜館』でのお食事の後、
鶴谷洋服店に立ち寄って下さいました。

まさか、薗部さんにお目にかかれるとは
思っておりませんでしたので、
とても嬉しい出来事でした。

築85年の序盤十数年の間、
薗部さんご一家が暮らしたこの建物は、
恐らく当時の面影を多く残したまま、
頑張っております…。


薗部袴店
1930(昭和5)年の神保町町会の地図では、
現在の鶴谷洋服店の場所に
「薗部袴店」とあります。
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すずらん通りで生まれ育った伯母達の脳裏には、
優しい薗部のおじさんの顔が、今でもはっきりと浮かぶそうです。
夏休みのラジオ体操で、ハンコを押してくれた…などと。
因みに当時のラジオ体操の会場は、
ミヤタ文具やサンマルクカフェ前の十字路でした。

第二次大戦中は明日も解らない非常時です。
多くの店が神保町の地を離れる決断をし、疎開しました。
もう少しで終戦という頃、
薗部袴店であった場所に鶴谷洋服店が入り、現在に至ります。

初期の鶴谷洋服店の店内は、袴屋のまま畳敷きでした。
伯父の父は、着物で店に出ていたとも聞きます。
一見ミスマッチですが、かえってそれが、
これから西洋服を仕立てようというお客様の、
想像を膨らませ、優越感をくすぐるような事が、
あったかもしれません。

鶴谷に残された道具の中に、
「薗部」と書かれた物差しが一本、紛れておりました。
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薗部さんご一家は、お元気でいらっしゃるでしょうか…。


洋服記念日2012
『日本洋服史』(洋服業界記者クラブ 1977年刊)
という本に、明治10年の西洋服師の番付表が載っています。

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東前頭六枚目に、鶴谷善吉の文字が…

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この番付がどのように使われたかはわかりませんが、
伯父の祖父が活躍した明治初期を近く感じるとともに、
日本に於ける洋服の歴史もまだ短かく、その短い間に
物凄いスピードで移り変わっているのを実感します。

今日11月12日「洋服記念日」は、
偶然にも鶴谷善吉の命日でもあります。
1891(明治24)年没、享年42歳でありました。


三回忌
お彼岸も明け、だいぶ季節も秋めいて参りました。
今は谷中に眠る伯父の、三回忌でもありました。

伯父、鶴谷光明は大正11年生まれ。
神田生まれの神田育ち。
幼い頃から、父・福太郎に仕込まれて
テーラーの道へ。

眼光も鋭く、口角沫を飛ばし…
という、賑やかな父親とは正反対で
無口で大人しく、黙々と仕事するのが好きな人でした。

ボクシングと相撲の観戦が好きなのも職人の伯父らしい。
一朝一夕ではいかない
根気と粘り強さ。

何でも早く、簡単に、思いつきで、成り行きで…
となりがちな昨今、
姿を浮かべると背筋を正したくなる人の一人です。

「身内を褒めるな…ったく」
と、叱られそうです。

鶴谷福太郎
鶴谷福太郎
1882(明治15)年1月11日生まれ。善吉長男。
1891(明治24)年 父・善吉死去。
1895(明治28)年2月9日 塚本市太郎(ホヤ市)の徒弟となる。
1900(明治33)年 大阪・神戸方面に修業。
1905(明治38)年 高久の下職となる。
1922(大正11)年 長男光明誕生。
1925(大正14)年 長女富久子誕生。
※自身の名前、徒弟入りの日付、長女の名前に、
服(ふく)が懸けられています。


明治維新の前から洋服作りをしていた、父・善吉を幼くして亡くし、
10代の時から、60代に現在の場所に店を構えるまで、
日清、日露、第一次、第二次の4度の戦争と、
大正12年の関東大震災も経験した訳ですから、
1967(昭和42)年5月5日、永眠するまでの85年間は、
ただ洋服作り一筋…とはいかなかった事が想像されます。

晩年の11年間を共に生活した伯母に拠ると、
かなりエネルギッシュな人物だったようです。
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1952(昭和27)年頃。福太郎70歳。
鶴谷洋服店入口前にて。
店の基本的な形は、現在も変わりません。
左端に、ラドリオロックの文字が見えます。


看板建築
看板建築とは、店舗兼住居の商店で
建物の正面だけ擬洋風建築風にし、
内部はそのまま、木造2階建ての住居
という建築物を言うそうです。

大正12年(1923年)の関東大震災後
まずはバラックから始まり
復興の土地区画整理で
本格的に広まったようです。

現存する看板建築は、
老朽化により減少傾向にあるようです。

さて、鶴谷洋服店はまさしく看板建築です。
昭和3年(1928年)築、木造二階建て、屋根裏部屋あり、
平坦な前面外壁は、金属スレート‥…
(その内部は、お隣りのラドリオさんと同じモルタル仕上げです。)